大阪歴史散歩 3 靱(うつぼ)

大阪歴史散歩

 

 

 

 

靱は現在は公園である。ジョギングする人、散歩する人、テニスをする人(立派なテニスコートがある)、多くの人が思い思いにそれぞれの季節を楽しんでいる。公園になる前は飛行場であった。戦災で焼け野原となったところをGHQ(連合国軍最高司令部)に接収されたのである。そしてその前は海産物問屋が軒を並べる商業地であった。

今は全て埋め立てられてしまったが、靱は周囲を運河で囲まれていた。北は京町堀川、東は西横堀川、南東に海部堀川、西には百間堀川があった。「堀川」という名が示しているように全て運河である。これらの運河を利用して、西の安治川や木津川の河口から海産物が運ばれていたのである。現在公園の中に「海産物市場跡」の碑が建てられている。

この靱を舞台にして大正の末年から終戦の頃までの海産物問屋の家族を描いたドラマにNHKで40年ほど前に放映されたのが茂木草介(1910~1980)原作の「けったいな人々」である。大阪局制作で、お笑い系の人も多く出演していたので、本格的なドラマとしての扱いはされていなかったように思われるが、今振り返ってみると数多くのドラマの中で白眉と言える作品であったのではと思われる。

テーマ音楽が始まると先ず映し出されるのは商家が軒を連ねる靱の街である。大阪は空襲にあって町家も殆どが焼けてしまい、南森町辺りに残っていた数少ない家々も、このところの再開発で取り壊されてしまっている。今これらの町並みを見たいと思えば、天六にある「くらしの今昔館」に行くのが最も良いだろう。その南森町や九条などという大阪の地名もこのドラマで初めて知ったものである。

主人公である長女の生まれた家は大きな海産物問屋であったが、父親が芸者買いや株道楽で家産を傾け、事実上の「しもたや」になってしまっている。この「家」を頼りない長男や奉公人、居候までを抱えて如何に維持していくのかというのが一つのテーマであった。

「言葉」もよく考証されていて、「どうにもなりまへんわなあ。」等という品の良い大阪言葉がふんだんに使われていた。花登筺(はなとこばこ・1928~1983)が描いた大阪ものの根性ドラマとはまた違った趣のある作品であった。こういった大阪物で名を挙げた作家として存在すること自体で安心感を与えてくれていた山崎豊子(1924~2013)も先年亡くなってしまったが、新しい大阪物作家はぼちぼちと育っているのであろうか。

この靫公園がなにわ筋に面したところの西南に「靱小学校跡」の碑と「甘露寺侍従御差遣記念」の碑である。後者は1929年に昭和天皇が侍従を大阪に遣わされたことを記念したものである。これは天皇の大阪行幸に伴う措置であったようである。この碑のあるところ一帯が狭いながらも靱の町家の伝統を受け継ぐ一帯である。

ここは1837年に乱を起こした大塩平八郎(1792~1837)が乱の失敗後に潜んでいたところである。大塩平八郎という人は毀誉褒貶の激しい人であるが、自分が「これ!」と思ったことについては周りの事情を考えずに行動する人であったことは、乱を起こすに際して反対する高弟を斬り殺していることからも分かる。この靱の隠れ家にしても「昔世話をしたからかくまえ。」と乗り込んできたようである。発見された時に息子を刺し殺し、自分は爆死するという派手な最後を遂げているが、かわいそうなのはかくまった側で、夫婦共に牢死している。これは単純な病死ではない。激しい拷問によって殺されているのである。これらのことから考えても大塩平八郎は友達にはしたくない人物であったろうと思う。

なにわ筋の向こう側には楠永神社がある。ここには大きな楠がある。この楠自体をご神体としている神社のようである。飛行場を造る時に伐採されかかったが、様々な怪異があってGHQも伐採を諦めたこと、東京の将門塚にも比べられるべき話であろうか。神が宿る御神木はどこの神社にもあるが、木そのものが神とされているのは珍しいのではないだろうか。このお社の前に立ち、目をつぶって昔を思いやれば往時の商家のざわめきが聞こえてくるようである。西に行けば雑喉場跡も近い。


靫公園
01 靫公園(大阪)

 

 

 

 

 

海産物市場跡
海産物市場跡(大阪)

 

 

 

 

 

靱尋常小学校跡
靱尋常小学校跡

 

 

 

 

 

天使来駕記念
天使来駕記念

 

 

 

 

 

楠永神社
楠永神社