カテゴリー別アーカイブ: 大阪歴史散歩(寄稿)

大阪歴史散歩  4  堂島・北新地

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淀屋橋の名の由来となった「淀屋」、江戸時代初期には他に並ぶ者の無い豪商として知られたが、「奢侈」を理由に取り潰された。この淀屋で始まったのが米相場である。淀屋の闕所後は米の売買は堂島で行われることとなった。その盛況ぶりは井原西鶴(1642~1693)の「日本永代蔵」にこぼれた米を拾い集めた老女が大変な金持ちになったという話があることでも知れる。ここで始まった米の先物相場が世界でも初めての先物であったという。

米価の上がり下がりに自身の身代の全てを賭け、儲かれば大尽、損をすれば乞食というような浮き沈みの激しい日々を送った人々が、かってここにはいた。中之島のガーデンブリッジの北岸に米相場跡の碑があるが、この碑に記されている「濱」の字は、ここで生きる人々のプライドを示すものであったという。この字を染め抜いた羽織を着ることが堂島に生きる者の誇りであったのである。けったいな気質は落語の『米上げイカキ』などでも十分に語られている。米と株式の違いはあるが、こういう気質の一つの到達点が中之島公会堂を建てた岩本栄之助(1877~1916)であったことは確かだろう。

かつて堂島川からは、蜆川が分岐し、再び堂島川に流れ込んでいた。従って堂島は文字通りの「島」であった。この蜆川は明治の大火の後に瓦礫がどんどんと放り込まれた結果、川が無くなってしまったそうである。今日、その川跡にはびっしりとビルが建っており、我々はかつての川の右岸と左岸の道を歩いていることになる。

堂島アバンザビルの東側には堂島の語源となった堂島薬師堂がモダンというか異様というか、他には無い姿を見せている。その前には国産ビール発祥地の碑がある。長いことこの辺りのランドマークであったダイビルは新しい姿に生まれ変わりつつある。旧ビルの上層階の四方に居て、辺りを睥睨するかの如き姿を示していた羊の像は、どうなったのだろうかと思っていたら、露天下に置かれていた。再び、置くべき所に置かれるのであろうか。

ここから蜆川(今は無いが)を渡ったところが北新地である。梅田などは往時は田んぼの広がる農村地帯であったことを考えると、文字通りに北に開かれた新地であったことが分かる。新地は、近松の心中物にも随分と題材を提供したところである。中でもよく知られるのは『曽根崎心中』であるが、ここからお初と徳兵衛が心中した曽根崎の森までの道行きはさほど長くない。今ひとつは『心中天の網島』で、その舞台である河庄の跡と考えられるところは蜆川の碑の近くらしい。ここから京橋に近い網島まではそこそこの距離である。

これらの場所を巡るのには30分もあれば足りる。かつての蜆川の岸沿いをさらに西に行けば「桜橋」跡の碑なども見ることができる。


米相場跡
米相場跡

 

 

 

 

 

 

 

 

蜆川跡
蜆川跡

 

 

 

 

 

 

 

 

堂島薬師堂
堂島薬師堂

 

 

 

 

 

 

 

 

国産ビール発祥地
国産ビール発祥地

 

 

 

 

 

 

 

 

ダイビルの羊
ダイビルの羊

 

 

 

 

 

 

 

 

曾根崎川の碑
曾根崎川の碑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大阪歴史散歩 3 靱(うつぼ)

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靱は現在は公園である。ジョギングする人、散歩する人、テニスをする人(立派なテニスコートがある)、多くの人が思い思いにそれぞれの季節を楽しんでいる。公園になる前は飛行場であった。戦災で焼け野原となったところをGHQ(連合国軍最高司令部)に接収されたのである。そしてその前は海産物問屋が軒を並べる商業地であった。

今は全て埋め立てられてしまったが、靱は周囲を運河で囲まれていた。北は京町堀川、東は西横堀川、南東に海部堀川、西には百間堀川があった。「堀川」という名が示しているように全て運河である。これらの運河を利用して、西の安治川や木津川の河口から海産物が運ばれていたのである。現在公園の中に「海産物市場跡」の碑が建てられている。

この靱を舞台にして大正の末年から終戦の頃までの海産物問屋の家族を描いたドラマにNHKで40年ほど前に放映されたのが茂木草介(1910~1980)原作の「けったいな人々」である。大阪局制作で、お笑い系の人も多く出演していたので、本格的なドラマとしての扱いはされていなかったように思われるが、今振り返ってみると数多くのドラマの中で白眉と言える作品であったのではと思われる。

テーマ音楽が始まると先ず映し出されるのは商家が軒を連ねる靱の街である。大阪は空襲にあって町家も殆どが焼けてしまい、南森町辺りに残っていた数少ない家々も、このところの再開発で取り壊されてしまっている。今これらの町並みを見たいと思えば、天六にある「くらしの今昔館」に行くのが最も良いだろう。その南森町や九条などという大阪の地名もこのドラマで初めて知ったものである。

主人公である長女の生まれた家は大きな海産物問屋であったが、父親が芸者買いや株道楽で家産を傾け、事実上の「しもたや」になってしまっている。この「家」を頼りない長男や奉公人、居候までを抱えて如何に維持していくのかというのが一つのテーマであった。

「言葉」もよく考証されていて、「どうにもなりまへんわなあ。」等という品の良い大阪言葉がふんだんに使われていた。花登筺(はなとこばこ・1928~1983)が描いた大阪ものの根性ドラマとはまた違った趣のある作品であった。こういった大阪物で名を挙げた作家として存在すること自体で安心感を与えてくれていた山崎豊子(1924~2013)も先年亡くなってしまったが、新しい大阪物作家はぼちぼちと育っているのであろうか。

この靫公園がなにわ筋に面したところの西南に「靱小学校跡」の碑と「甘露寺侍従御差遣記念」の碑である。後者は1929年に昭和天皇が侍従を大阪に遣わされたことを記念したものである。これは天皇の大阪行幸に伴う措置であったようである。この碑のあるところ一帯が狭いながらも靱の町家の伝統を受け継ぐ一帯である。

ここは1837年に乱を起こした大塩平八郎(1792~1837)が乱の失敗後に潜んでいたところである。大塩平八郎という人は毀誉褒貶の激しい人であるが、自分が「これ!」と思ったことについては周りの事情を考えずに行動する人であったことは、乱を起こすに際して反対する高弟を斬り殺していることからも分かる。この靱の隠れ家にしても「昔世話をしたからかくまえ。」と乗り込んできたようである。発見された時に息子を刺し殺し、自分は爆死するという派手な最後を遂げているが、かわいそうなのはかくまった側で、夫婦共に牢死している。これは単純な病死ではない。激しい拷問によって殺されているのである。これらのことから考えても大塩平八郎は友達にはしたくない人物であったろうと思う。

なにわ筋の向こう側には楠永神社がある。ここには大きな楠がある。この楠自体をご神体としている神社のようである。飛行場を造る時に伐採されかかったが、様々な怪異があってGHQも伐採を諦めたこと、東京の将門塚にも比べられるべき話であろうか。神が宿る御神木はどこの神社にもあるが、木そのものが神とされているのは珍しいのではないだろうか。このお社の前に立ち、目をつぶって昔を思いやれば往時の商家のざわめきが聞こえてくるようである。西に行けば雑喉場跡も近い。


靫公園
01 靫公園(大阪)

 

 

 

 

 

海産物市場跡
海産物市場跡(大阪)

 

 

 

 

 

靱尋常小学校跡
靱尋常小学校跡

 

 

 

 

 

天使来駕記念
天使来駕記念

 

 

 

 

 

楠永神社
楠永神社

 

大阪歴史散歩  2 加島

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藤田まこと(1933~2010)は天才であったと思う。

この人が作詞・作曲した歌に「梅田~離れて~なかつ(中津)を過ぎりゃ~♪」で始まる「十三の夜」がある。

一般には「ねぇちゃん、ねえちゃん、十三~のねぇちゃん~♪」のフレーズが知られていて、お笑い芸人の戯れ歌のようにも思われているが、水商売で働く女性を思いやりのまなざしで包みながら歌い上げていて、本当にしんみりと聞かせる名曲である。

その3番の歌詞に曰く「もすりん橋を今日は一緒に云々」と。店がはけた水商売のお姉ちゃんと一緒に帰っていこうという意味かと思われる。この歌詞から「もすりん橋」は十三のすぐ近くと決め込んで阪急の十三駅から歩いたことがある。ところが、歩いても歩いても橋には着かない。途中でたこ焼き屋に入って休憩しなくてはならないほどの距離であった。

それもそのはずで、この橋を越えたところは兵庫県の尼崎市の戸の内町で、朝帰りの身にはこの距離は酷であろうな等と思った次第である。こちら大阪側は加島ということになる。

淀川や神崎川の河口一帯は、かつては八十島と言われるデルタ地帯であった。今日でも佃島や姫島など「島」の付く地名が多く残っているが「加島」もその一つである。鎌倉時代の中頃までは天皇即位の大嘗祭の翌年には勅使をこの辺りに派遣して、島の神々に報告する八十島祭が行われていた。有名な生玉さん(生國玉神社)の御祭神である生島大神や足島大神はこの八十島を象徴した神々である。

この加島に鎮座しているのが香具波志(かぐはし)神社である。お稲荷さんであるが、多くの神社と同様にお伊勢さんや八幡さん、住吉さんも合祀している。この神社には三好長慶(1522~1564)が寄進した鳥居の礎石や江戸時代の国学者であり『雨月物語』の作者として知られる上田秋成の住まい跡の碑がある。

三好長慶は知る人ぞ知る戦国大名で、織田信長(1534~1582)上洛前に一時期近畿一円を支配した人である。本来は阿波徳島県の吉野川上流域の大名であるが、近畿の根拠地としては西宮市の越水城、高槻市の芥川城、四条畷市の飯盛城が知られる。上洛した織田信長と死闘を繰り広げる「三好三人衆」とは、本来長慶の一族・家来だった人たちである。

その三好長慶が一族でありながら、父元長を自殺に追い込んだ一人である三好政長と最終的な決戦(後世から見ればだが)に挑んだのが1549年の江口の戦いである。

江口は淀川から神崎川が分かれるところにあった河川交通の要衝で、現在の大阪市東淀川区にあたる。この戦いで長年の仇敵であった三好政長を討ち取ることに成功するのであるが、討ち漏らした政長の息子政勝は遠く京都市京北の宇津にまで逃れて長慶に戦いを挑み続けるのである。皮肉なことに江戸時代に入って三好氏の事績を継いだのはこの正勝であった。

この江口の戦いの戦勝の御礼に長慶は鳥居を寄進した。この他にも南北朝期の武将である楠正儀(くすのきまさのり・正成の息子、正行の弟 1330?~1389?  )等もこの神社に戦勝を祈願したそうである。正儀の父である楠木正成については、最近どうも吹田辺りの市の管理者であったのではと言われているから、この地の社に楠氏が戦勝祈願をしても不思議はない。

上田秋成(1734~1809)は、幼児期に疱瘡にかかった時に、その母親がこの社に祈願して命が助かったという縁で、成人の後に加島で医者を開業している。『雨月物語』は、この加島にいたときに刊行されている。随分とシニカルな性格の人であったろうことは晩年の著書である『胆大小心録』からも知ることが出来るが、村の人たちからは慕われたのであろうか、亡くなった京都での墓とは別にこの地にも墓が造られている。老いてから京都に移ったということで、その心はいつも大坂にあり、取り分けこの加島のことを懐かしく語っていたのかも知れない。それならばこちらでも墓を造ってあげようとなったのであろう。

さて、もすりん大橋を渡った尼崎の戸の内には行基(668~749)の伝説がある。

行基がこの辺りで川を渡ろうとした時に鯉が大挙して近づき、行基を乗せて川を渡したというものである。ためにこの地域の人たちは鯉を大切にして絶対に食さないとのことである。そして橋の欄干には鯉のレリーフがある。このすぐ先に神崎の津があり、法然流謫の折に川に身を投げた遊女達を弔う遊女塚も近い。

鯉を大事にすると言うことでは亀岡市の大井町が有名である。松尾から月読命(つきよみのみこと)が鯉に乗って桂川を遡上してきたという伝承に基づくものであるが、こちらは鯉を食べると言うことだけでなく、鯉幟もタブーであるという。戸の内もそうであるのか、聞いてみたいと思ったが、人と出会うことが出来なかった。

ということで、最後は亀岡にまで話が飛んでしまったが、本日はここまでとする。

もすりん橋
行政書士日記大阪加島 もすりん橋

 

 

 

 

 

もすりん橋2
行政書士日記大阪加島もすりん橋2

 

 

 

 

 

香具波志神社
行政書士日記大阪加島香具波志神社1

 

 

 

 

 

上田秋成寓居碑
行政書士日記大阪加島上田秋成寓居碑

 

 

 

 

 

行基と鯉
行政書士日記大阪加島「行基と鯉」

 

 

 

 

 

猪名川橋・鯉のレリーフ
行政書士日記大阪加島猪名川橋鯉

大阪歴史散歩  1  新町界隈

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京都の東山七条を東に少し入ったところに新日吉神宮がある。後白河院が大津の日吉神社を勧請したものであるが、社地は転々として今のところに落ち着いたのは「太閤三百年祭(豊臣秀吉没後300年記念=1898年)」の時のようである。

この神社には、狛犬・唐獅子代わりの石の猿(夜な夜な悪さをするという伝えでもあるのか、今は金網に囲まれている)や明治時代に市民に正午を知らせた所謂「ドン」に使用された大砲の砲座など面白いものがある。

とりわけ目をひくのは大きな燈籠。この燈籠の寄進者の名称として「大阪六遊郭」の名が大きく刻まれている。

「何とまあ堂々と!」などと思うのは、心の裏に「遊郭=日陰者、無法者」というようなイメージが擦り込まれているためであろう。しかし、この手の心象は昭和33年の売春防止法以来少しずつできあがっていったもので、それ以前は遊郭も人に何ら恥じることのない堂々たる正業であったことは間違いない。

大阪の人は「太閤さん」の名で豊臣秀吉(諸説あり~1598)に親近感を抱いてきた。それは例えば、現在の大阪城が豊臣氏が滅んだ後に徳川氏が築いた城であるにもかかわらず、「太閤さんの城」と思い続けている人が殆どであることからも察することが出来る。

建立は明治38年、太閤祭の年である。

「何でも京都で太閤さんの300年祭を派手にやらはるようやで。」「ほたら、わてらも奮発せんとあきませんなあ。」というような具合で燈籠の建立となったのであろう。

燈籠には六遊郭として、「新町・松嶋・北新地・堀江・南甲部・南乙部」が刻まれている。大阪には他にも多くの遊郭があったが、この六ヶ所が最も格式が高かったと思われる。

このうち南乙部はほどなく飛田新地に移っている。この六ヶ所の中で今もなお遊郭の雰囲気を良く残しているのが、移転した南乙部であるのは皮肉な話である。松嶋も辛うじて遊郭の名残を残しているが、北新地やミナミなどは盛り場と言うばかりで昔の面影はない。新町や堀江などは古い商店は残るものの、今やビジネス街と言っても良いのではないかと思われる程である。

この六遊郭の中で圧倒的な格式を誇ったのは新町である。遊女にも「太夫」や「天神」などこまごまとした「位」があったようだが、最高位の太夫のいる遊郭は江戸の吉原、京都の島原、大坂の新町だけであったという。その新町の太夫では、京都の島原から移った「夕霧太夫」(?~1678)が有名である。

さて、新町をうろうろするのであるが(やっと本題)、昔の名残を残すものとして、今は埋め立てられてしまった西横堀川に架かっていた「新町橋碑」、旧厚生年金会館(現オリックス劇場)の南にある公園内の「新町九軒桜堤の碑」がある。

この桜堤の碑の横には加賀の千代女(1703~1775)の句碑も置かれている。昭和の末年までは料亭の前に置かれていたものであるが、料亭の廃業に伴って公園に移設されたものである。それ以前には空襲にも遭ったとのことで上部は欠けている。「だまされて来て誠なり初桜」の句が刻まれている。

先の夕霧太夫は1678年(延宝6年)に亡くなっている。加賀千代女はそれから25年後に生まれている。往時を偲べば西横堀川に映る桜ぼんぼりということになろう。

公園の南には「初世中村鴈治郎生誕地」の碑。今の坂田藤十郎のおじいさんに当たる人である。この界隈の妓楼の息子として生まれたそうである。この碑は最近新しく建て直されたような気がするのだが、大阪にもまだまだ奇特な人がおられる一証左である。

この辺りには、基本的にはもはや昔を偲ぶすべもないと言えるのかも知れない。が、少し散策すれば、「昔はさぞや。」と思われるような一角も少しは残っている。

堀江や北新地についてもふれたいことはあるが、今回はここまでとする。


「大阪六遊郭」の名が刻まれている新日吉神宮燈籠
(大阪)六遊郭2

 

 

 

 

(大阪)六遊郭1

 

 

 

 

新町橋跡
(大阪)新町橋1

 

 

 

 

新町九軒桜堤碑
(大阪)新町九軒桜堤碑

 

 

 

 

千代女句碑
(大阪)千代女句碑

 

 

 

 

中村鴈治郎(1860~1935)生誕地
(大阪)中村鴈治郎生誕地碑