
京都の東山七条を東に少し入ったところに新日吉神宮がある。後白河院が大津の日吉神社を勧請したものであるが、社地は転々として今のところに落ち着いたのは「太閤三百年祭(豊臣秀吉没後300年記念=1898年)」の時のようである。
この神社には、狛犬・唐獅子代わりの石の猿(夜な夜な悪さをするという伝えでもあるのか、今は金網に囲まれている)や明治時代に市民に正午を知らせた所謂「ドン」に使用された大砲の砲座など面白いものがある。
とりわけ目をひくのは大きな燈籠。この燈籠の寄進者の名称として「大阪六遊郭」の名が大きく刻まれている。
「何とまあ堂々と!」などと思うのは、心の裏に「遊郭=日陰者、無法者」というようなイメージが擦り込まれているためであろう。しかし、この手の心象は昭和33年の売春防止法以来少しずつできあがっていったもので、それ以前は遊郭も人に何ら恥じることのない堂々たる正業であったことは間違いない。
大阪の人は「太閤さん」の名で豊臣秀吉(諸説あり~1598)に親近感を抱いてきた。それは例えば、現在の大阪城が豊臣氏が滅んだ後に徳川氏が築いた城であるにもかかわらず、「太閤さんの城」と思い続けている人が殆どであることからも察することが出来る。
建立は明治38年、太閤祭の年である。
「何でも京都で太閤さんの300年祭を派手にやらはるようやで。」「ほたら、わてらも奮発せんとあきませんなあ。」というような具合で燈籠の建立となったのであろう。
燈籠には六遊郭として、「新町・松嶋・北新地・堀江・南甲部・南乙部」が刻まれている。大阪には他にも多くの遊郭があったが、この六ヶ所が最も格式が高かったと思われる。
このうち南乙部はほどなく飛田新地に移っている。この六ヶ所の中で今もなお遊郭の雰囲気を良く残しているのが、移転した南乙部であるのは皮肉な話である。松嶋も辛うじて遊郭の名残を残しているが、北新地やミナミなどは盛り場と言うばかりで昔の面影はない。新町や堀江などは古い商店は残るものの、今やビジネス街と言っても良いのではないかと思われる程である。
この六遊郭の中で圧倒的な格式を誇ったのは新町である。遊女にも「太夫」や「天神」などこまごまとした「位」があったようだが、最高位の太夫のいる遊郭は江戸の吉原、京都の島原、大坂の新町だけであったという。その新町の太夫では、京都の島原から移った「夕霧太夫」(?~1678)が有名である。
さて、新町をうろうろするのであるが(やっと本題)、昔の名残を残すものとして、今は埋め立てられてしまった西横堀川に架かっていた「新町橋碑」、旧厚生年金会館(現オリックス劇場)の南にある公園内の「新町九軒桜堤の碑」がある。
この桜堤の碑の横には加賀の千代女(1703~1775)の句碑も置かれている。昭和の末年までは料亭の前に置かれていたものであるが、料亭の廃業に伴って公園に移設されたものである。それ以前には空襲にも遭ったとのことで上部は欠けている。「だまされて来て誠なり初桜」の句が刻まれている。
先の夕霧太夫は1678年(延宝6年)に亡くなっている。加賀千代女はそれから25年後に生まれている。往時を偲べば西横堀川に映る桜ぼんぼりということになろう。
公園の南には「初世中村鴈治郎生誕地」の碑。今の坂田藤十郎のおじいさんに当たる人である。この界隈の妓楼の息子として生まれたそうである。この碑は最近新しく建て直されたような気がするのだが、大阪にもまだまだ奇特な人がおられる一証左である。
この辺りには、基本的にはもはや昔を偲ぶすべもないと言えるのかも知れない。が、少し散策すれば、「昔はさぞや。」と思われるような一角も少しは残っている。
堀江や北新地についてもふれたいことはあるが、今回はここまでとする。
「大阪六遊郭」の名が刻まれている新日吉神宮燈籠


新町橋跡

新町九軒桜堤碑

千代女句碑

中村鴈治郎(1860~1935)生誕地
